#3「国民的○○」に想ふ (私的『サザエさん』論?) 「国民的○○」というのがどうも苦手だ。芸能、スポーツ界などの大スターから、歴史上の有名人、イベント、行事、映画、テレビ番組、果てはソウルフードまで、「国民的○○」と呼ばれるものは、日本国内、いや世界各国に多数存在する。言わば、絶対的象徴である。わたしの場合、昔からそう呼ばれるものが苦手で、斜に構えるとまではいかないが、少々距離を置いて見てしまう傾向がある。それそのものがどうというのではなく、周囲と同じ方向を向きたがらないこの性質は、若い頃から少しも変わっていない。要するにアマノジャクなのだ。それとも単なるヒガミ根性にすぎないのか? そんなわたしが、めずらしく「これぞ国民的○○」だと称賛したくなるものがある。それが『サザエさん』だ。これはもう、オリンピックの金メダリストや現役総理大臣と同等、いやそれ以上の知名度を誇っていると言っても過言ではあるまい。原作漫画をはじめ、映画、ドラマ、アニメと、戦後から現在までこれほど長きに渡り、人目に触れられてきたものはそうないだろう。レトロ好きな筆者にとっては、50年代半ばから60年代初頭にかけて制作された江利チエミ氏主演の実写映画に魅力を感じてしまうのだが、ここで取り上げるのはアニメ。そう、日本人ならおじいちゃん、おばあちゃんから乳飲み子(ん?)、ペットまで(アホか!)口ずさむことのできるアノ曲で始まるアノ番組である。お馴染みという点では、原作以上にアニメの方がより「国民的」と言えるのではないかと思う。番組の主人公、フグ田サザエは普通の専業主婦であると同時に、立派な「国民的大スター」なのだ。 話は少し戻って、そもそも「国民的」とは一体どういったものを指すのだろうか。成し得た偉業の大きさや影響力という点では、オリンピックメダリストやミリオンセラーを頻発させる音楽アーティストだって負けてはいまい。良い悪いは別として、政治経済の世界においてもある意味でのヒーローやカリスマは存在する。彼らは「時の人」、「時代の寵児」と持て囃され、中には「国民的○○」と呼ばれるほどの存在にのし上がった人物もいるだろう。「国民的○○」アレルギー(…とまではいかないか?)のわたしが、『サザエさん』に最大級の賛辞を贈りたくなる理由。毎週意識して見ているわけでもなく、キャラクターたちに特別な共感を覚えるわけでもないわたしが、いつまでも「国民的」であり続けてほしいと願う理由…。 「普通」だからである。そう、『サザエさん』の世界は何もかも至って「普通」なのだ。登場人物もとりわけ何の特技も才能もない(失礼。まあ、カツオはある意味での天才かもしれないな)普通の人たちだ。ストーリーに至っては、ワクワクさせるような展開もなければ爆笑を誘うようなオチもなく、テレビにかじり付いて(古い表現だ)見入ってしまうようなことはまずない。早い話、マンネリなのだ。しかし、このマンネリ感こそがこの番組の最大の武器と言ってもいい。まさに「崇高なるマンネリ」である。言い換えれば、「気が付くといつもそこにある家族の食卓」そのものなのだ。 1953年、小津安二郎監督のあまりにも有名な映画『東京物語』では、欧米化しつつある戦後の日本社会において、家族の絆の危うさが描かれた。それから16年後の1969年に、テレビアニメ『サザエさん』は放送開始となり、しばらくの間、我が国の食卓は何とか日本らしさを保ち続けていたのだと思う。そこからさらに数十年、食卓を大変貌させた現代においても、アニメ『サザエさん』は、日本の家庭の多くが「サザエさん一家」だった頃とほとんど変わっていない。ハイビジョン化に伴う番組の完全デジタル化、声優さんの交代(それほど違和感がないのは見事!)、登場アイテムやタレントゲストなどによる時代考証の曖昧さがあるにせよ、どう見ても空気感は昭和のままだ。他の長寿番組が、時代の流れに見合った変化を遂げてゆく中(因みに『サザエさん』の前に放送されている『ちびまる子ちゃん』は、作品そのものの時代背景を1974年と具体的に設定しているので、これはこれで大変秀逸な作品である。世代の近いわたしには共感するところも多い)、サザエさん一家の「食卓」は原点に留まったまま、「リフォーム」どころか「換気」すらされてはいない。 「これが日本なんだ」と胸を張って言えた時代。欧米文化にかぶれながらも何とか日本人のアイデンティティを保てていた(であろう)時代。ロボットではなく、頭脳や手足をフル稼働させることを許されていた時代。来るか来ないか分からない手紙の返事を、千秋一日の思いで日々待ち続けていた時代。そして、「普通の人々」が「普通」で満足できていた時代。そんな時代の「証言者」としての『サザエさん』は、「JAPAN」ではない「普通の日本」の最大最後の砦なのではないだろうか。 前述した「気が付くといつもそこにある食卓」には、常にサザエさん一家の飼い猫タマがいる。我々がサザエさん一家を「ノゾキミ」するのと同時に、タマの眼がこっちの世界を興味深く、時には冷ややかに見つめ続けているような気がしてならない。だとすると、まさに時代と空間を超えた「吾輩は猫である」ではないか。昭和のあの頃が、今よりも全てが良かったとは言わない。今の方がずっと良いと思えることだって沢山ある。変わりゆく時代を超えて、変わらない「国民的一家」の物語が、原点回帰の必要のないまま末永く続いてゆくことを願って止まない。 |